終戦記念日を終えて、現代日本を考えてみる。

まぁ、オレは政治の専門家でも、経済の専門家でもない。
なので、専門的な話をするきもないし、そういう論争に参加する気もない。

こういう話を考える発端になったのは、庶民レベルの頭で、庶民レベルの常識で、庶民レベルで判断できる事を、なぜ国がやらないのか?って所に疑問を持ったところから始まっている。

今、政府は国民に対する背信行為を行なっています。
民主党はマニフェストを提示し政権を得たにもかかわらず、その内容は実行せず数年で分裂。
責任の所在は有耶無耶にされています。
理由の如何を問わずに、約束を守らないのは信用されないし、実社会では通用してない。
なので、十分背信行為であると言い切れるでしょう。

国民は、そんな政府の言うことに不信感を抱きつつも、政府の言いなりになっています。
というか、合法的な選択肢はそれしか与えられていない。
情報は操作され、メディアから流れてくる情報は、政府および支配階級にとって有益に作用する情報しか流れてこない。
国民にとって本当に有益で知るべき情報は、常に政府に規制され隠蔽され、知る由もない状態である。

この状況、何か似てませんかね?

大東亜戦争(太平洋戦争)時の日本の姿に…。

今は別に戦争はしてませんがとても良く似ている。
※一説には太平洋戦争は続行中であると言う見方もありますが…

ミッドウェー海戦敗北以後、大日本帝国は敗戦への道を歩き出すわけですが、大本営発表はそんな負け戦の話は報道しないんですね。
むしろ「新鋭潜水艦艦載機によるアメリカ本土爆撃!」みたいな、オレゴン州の森林をちょっと燃やしただけの戦果を大げさに発表してしまう。
だから、国民は支那事変以降、大日本帝国は勝ち続けてると信じてた。
この報道規制のお陰で、戦時中に3度に渡る地震津波災害で4000人以上の国内の一般市民が亡くなっていることも当時の国民のほとんどは知らされてないわけです。

つまり、戦時下において士気が下がるような報道は制限されていたわけです。
当時大本営発表以外の情報ツールを持たない国民は、それを信用するしかなかったんですね。
ここでも、他の合法的な選択肢は与えられていない。

しかし、さすがに昭和18年、アッツ島玉砕から「玉砕」って言葉の使用が始まり、翌年には南方の島では玉砕が相次ぎ、硫黄島が陥落し、本土空襲が始まればロクな知識など無くとも「もう負ける」って事は肌で感じるわけです。
それでも大本営は絶対に「もう負けます」とは言わない。
「一億総玉砕まで頑張りましょう!」と言うのです。

コレは「敗北宣言」なんですが、当時の洗脳された国民には、これが「敗北宣言」には聞こえないんですね。
つまり「敗北(負ける)」と言う概念は「玉砕」という「消滅しても負けではない」というおかしな概念に置き換えられている。
アッツ島の報道で「国民が全滅しても、負けを認めなければ(戦い続ければ)負けではない!」という、おかしな概念が埋め込まれたんです。

政府は報道規制をして、政府に都合の良い、つまり一部の支配階級に都合の良い情報しか流さない。
その情報が全てだと信じている国民は、実際の状況に不安を感じながらも「負ける」意識がない。
「負けました」と言わなきゃ(負けを認めなければ)負けじゃないみたいな、戦争と言う実際に国民の生命がかかってる話なのに、子供の喧嘩みたいな理論になってしまっていた。
神風特攻や桜花を作ったり、B29を竹槍で落とそうと言い出す時点で狂ってるんですが、それを狂ってるとは思わなくなってしまっている。

なので、戦争を続けることに対する疑問や不満を内に秘めたまま、したくもない戦争へ邁進することになる。
戦争に負けないために。
既に「勝つため」に戦争してないんですね。
「負けないため」に戦い続けるしか無いと言う、無限地獄を選んでしまったわけです。

またそれを選択しなければ、政府よりもなによりも、隣人より「非国民」と避難されてしまう。
戦争反対は国民として宜しくないと言う刷り込みによる隣人非難を、世論に定着させてしまってるわけです。
これは、実生活において一番厳しい境遇になるのでした。

そして今…。

国民は、不況や社会的な荒廃を感じつつも、明確な打開策が与えられず、ただ政府の言いなりで、原発稼働にも、TPP問題にも、増税法案にも、事実上口出しできない。

政府が発表する(つまり戦時中の大本営発表と同等ですな)政策や情報を鵜呑みにするしか選択肢は与えられず、長期間続けていると、どんどん麻痺してくる。
原発が動き出しても、気にする人も少なくなってくる。
増税されても、政府発表の試算を見て「まぁ仕方がない」と思う人が殆どで、恐らく消費税が上がっても、そのまま文句も言わずに買い物するんでしょう。
その政府発表の試算がどういうものかを分析・理解する人は、専門家以外には出てこないでしょうしね。
なので、事実上「嘘」(意図的に知らせないのは、嘘より質が悪い)の情報で騙されて、気がついたら「敗北」してる可能性が大きいわけです。
政府の玉音放送聞く頃には、我々庶民は全てを失ってますよ。

原発がメルトダウンして、放射能が漏れて今までの基準値じゃ都合が悪くなるわけです。
「じゃ安全基準値変えましょう。」とか、もう狂ってるとしか思えないんですが、それを狂ってると思わなくなってる。
状況に合わせて安全基準を変えてしまう政府は狂っています。
安全ってのは、状況によって変化するものじゃない。
絶対的な部分で守られるからこそ安全なんですね。
恐らく今後も安全基準がどんどん緩和されて、放射性物質を含んだ物資食料がどんどん全国を流通し全国民が死に至る事になるまで何も変わらないでしょう。

でもそれを「狂っています!」と声を上げる場所がない。
政府は何時だってそれを用意していない。
上げたところで、政府はもちろんメディアにすら無視され、その声は雑踏に消えるわけです。
実際にその安全基準に関する話は、以前は検索などしなくともネットに散見できたのに、今は殆ど見られなくなってる。
雑踏に消えかかってるんですね。

なので、デモ行進とか、署名運動とかになるわけですが、正直無駄。
しかし、それでも一部の人達は何もしないよりマシだと言う。

例えば原発反対の署名を集めて、政府や関係機関(つまり電力会社とかね)に提出して、原発を止めてくれと頼んだところで、彼らにとって署名など個人の名前が書かれた紙クズでしかない。
そこに明確な利害が反映されてないと誰も動かない。
ましてそんなものじゃ世の中は変えらない。

止めるには相応の理由が必要で、「危ないから」みたいな理由じゃ聞く耳など持たれるわけがない。
立場を変えて考えてみればわかると思う。
だれかが、「交通事故がこれだけ多くて、死者も沢山出てるのに、誰も車を排除しようとはしない。」と言ってましたが、まさにそのとおりなんですね。

原発も、安全に運用できれば問題ないのです。
車も安全運転すれば問題ないのです。

で、安全運転する人(出来る人)が少なくて事故が多発しても「車を止めろ!」と言わないのは、交通事故によるデメリットよりも、車社会の恩恵の方が大きいからなんですね。
つまり、隣人が事故死しても、ウチの車は無くならないんですよ。

電力会社は、地域住民が放射能で死んでも、原発稼働で得られる恩恵の方が大きければ、そんなもの無視するに決まってるんです。

例えばオレが、道庁の前で「政府は狂っています!」と声を枯らしたところで、誰に届くだろう?
それが1万人集まったって同じ事。
警察に(つまりコレは政府に)規制されながらデモ行進したところで、何になる?
誰の何を動かす?
誰か政府要人とか、官僚の心でも動かして、世の中が変わると思ってるのだろうか?
過去、デモ行進で世の中が変わったことが一度でもあるだろうか?

考えてみて欲しい。
それは、「竹槍でB29を落とす」ことに等しくないだろうか?
上空を飛ぶB29は竹槍じゃ絶対に落ちないんだが、国民はそれを知りつつも、竹槍を突き上げ鬼畜米英と叫ぶ「訓練」と言う茶番を演じていたわけだ。

今我々は、それじゃ何も変えられない事を知りつつ、デモ行進だの署名集めだのという茶番を演じてるのではないか?

そもそも政府は、政府がひっくり返るような事態になる可能性を含んだ事象は全て法律で制限してある。
破壊活動防止法(破防法)等でデモの規制なんかもされている。
つまり不穏な動きを察知したら、実行動に出る前に阻止できる枠組みがもう60年も前に出来上がってるんですな。

なのに今行なっているデモや署名が政府より許されているのはなぜか?
デモによって政府がひっくり返ることなど無いからに他ならない。
つまり、デモや署名で何かを変えようとしても無駄なんです。

体制をひっくり返すには、常に違法な行動に出なきゃならないわけです。

オウム真理教は自分たちの特異性故に世間から離反してゆき、それを逆恨みした形で、体制を変えようとした。
1995年サリン事件で大量殺人(テロ)を行った時に、この「破防法」では法解釈の問題で処分できず、やむなく「団体規制法」って別な法律が制定された。
つまり新しい法律作ってでも、謀反は起こさせない仕組みになってるわけです。
ま、オウム真理教は謀反というより、狂ってると思ってるんで、既に論外なのだが…。

オレは、今日の合法は明日の違法であることから、非合法行為が必ずしも「悪」であるとは思っていない。
例えば、インターネットダウンロード。
著作物のコピー又は著作物そのものをインターネットサーバーにアップロードしてそれをダウンロードする行為なのだが、この著作権ってのは、権利者が主張して初めて有効な権利なんだよね。
本来第三者が介入するような問題じゃない。

つまり、著作者が認めれば、それは違法でもなんでもないのだ。

それを第三者であるはずの国が管理しようとするのが、この法律なんだが、今まで違法じゃなかったことが、この10月より明確に違法行為になり刑事罰が課せられることになった。

これはなにか歪んでいるわけだが、その歪みを明確にできないし、ましてこの前哨戦であった2010年の著作権法の改正施行を詳しく知っている人は殆ど居ないだろう。
実は2010年の1月から既にダウンロードは違法になってたんだが、刑事罰がなかった。
今回は、そこの刑事罰を設けることになったわけで、その根拠は今もって明確じゃない。

2010年の法改正から、今回刑事罰化に至るまでどれほどの国民が関心を寄せ、意見をしてきたか。
ネット上では多くの反対意見を散見できたし、実際にデモ(50人規模の小さなものだったが)までしたが、結局その声は届かず、いつの間にか法制化されてしまっている。

こういうことを書くと、「いや、ちゃんとアナウンスがあったではないか!」と言う輩がどこかから湧いてくるが、「アナウンス」ってのは、ちゃんと誰もが知ることができる環境に置いて公示するから有効なわけで、どこかを探さなきゃならないようなのは、「アナウンス」とは言わないんだよね。
まして、一方的にアナウンスされたところで、意見があっても聞き入れられない状態。
つまり、政府のどこか民衆の目の届かないところで勝手に進められていて、国民の審議すら行うこと無く決められてゆくわけです。

結局、ポツダム宣言受諾より67年、我々は何も進化していないし、何も学んでいない。

非合法行為を率先するつもりはないが、それ以外に世の中は変えられないと思う…。
合法で居る限り、世の中は変わらないようにできてるんだから。
本気で何かを変えたいならば、合法とかそういう観点じゃなくて、確実に変えれる方法を選ぶべきなんだ。

それを選ばないって事は茶番でしかない事を自ら認めてるのと同じだと思う。

まぁ、思いつくままダラダラ書いたんで、支離滅裂感は拭えないが、言いたいことはコレで伝わると思う。