理解者
昔、「人と言う字は、二本の棒が支えあってる形で出来ている。だから、人は支えって生きてゆくべきなんだ。」なんて事をどっかで聞いた。
んじゃ、「入」って字も同じジャン!」なんて思ってたんだけどね。(笑)
まぁ、支えあうには、互いに良き理解者である必要があるんじゃないかと。
で、理解者ってなんだろう?
親兄弟ですか?彼氏や彼女、配偶者ですか?それとも友達ですか?
そもそも人ってそんなに簡単に、把握できるものなのだろうか?
オレにはそうは思えないんですわ。
昔は、「相手の立場に立って、相手の気持を理解して…」なんて、小学生の道徳みたいな事を本気で考えてました。
まぁ、今でも基本スタンスは変わってないんですが、どうにも綺麗事すぎるなと、最近はやっと気づきはじめたところです。(笑)
つまりですな、「相手の立場」なんて想像したところでわかるはずもない。
実際に、その立場に立ってみて初めて、その立場の良さも辛さも感じることが出来るわけでね。
で、仮に同じ立場に立てたところで、状況も違えば感じ方も違う。
何かを感じたところで、それがその「相手」の感じ方と同じじゃないんですわ。
だから、「気持ちの理解」なんてのは到底無理。
不可能なんですわ。
ここが現実の辛いところでしてね。
絵空事…とまで言いたくありませんが、かなり綺麗事で、それをそのまま鵜呑みにすると、実際は綺麗どころか、むしろ醜い事に気づいた時に、大きな心のキズを残すことになります。
ずーっと以前に、とある友だちが「人は互いに理解できない」ってところにスタートラインを引いてる人が居ました。
その言葉を聞いてなんとも、心の寂しい人だと悲しくなったことがあります。
しかし今は、「あぁ、彼も辛いんだろうな。現実の醜さに己を閉ざすと言う選択をしたんだな。」と思っています。
まぁ、それすらもオレの想像であって、彼を理解してるわけじゃないんですけどね。www
それほど理解できないし、されないわけです。
努力が結構虚しいわけですね。
で、理解のメカニズムを考えてみた。
「理解した」といえる状況ってどんなだろうと考えてみる。
「(話さなくても)考えてることや感じてることが100%わかる。」
まぁ、究極はこういう事なんでしょう。
サイコキネシス?テレパシー?バビル2世かよっ!?www って感じ。w
結局、これって確認できないですけどね。
相手の真実が100%わからない状況で、自分の理解度は測れない。
また、同じ理由で相手は自分の理解度をチェックすることが出来ない。
じゃ、実際は何を持ってして理解したとしてるんだろうか?
コレは、「レッテル貼り」にも近いんですが、つまりは「符号化」じゃねーかと思うわけです。
つまり、相手を自分が理解しやすいように符号化する。
例えば、ちょっと人のよさそうな人を見つければ、その人の他の側面がどうアレ「(人の)よい人」と言うレッテルを貼り、自分の中で符号化してゆく。
コレの繰り返しなんですね。
同じ人に対して、新たな側面を見つけては何度もレッテルを張り替えて、どんどんその人に対する理解の精度を上げてゆく。
そのうち、何処かのタイミングで「理解した」と言うラインを超えることになる。
しかし、そのラインの多くは自分依存なので、本当に理解してるかどうかは、誰にもわからないわけです。
と言うより、そもそも理解と言うよりは、自分にわかりやすいレッテルを貼り続けてるだけなんですね。
なので、「理解したつもりに成ってる」だけであって、理解したわけじゃないんです。
だから、時々予想外の対応をされて、困惑することになる。
つまり、困惑の原因は相手の言動ではなく「理解してた」つもりに成ってた自分が原因なんですね。
こんな曖昧であやふやな感情を基盤にしてコミュニケートしてゆくのは、ものすごく危険だなと最近気づきました。
まぁ、何が言いたいかというと、世の中、独りよがりなことが多いので、それはそれとして正しく認識しようってことなんですけどね。
理解したつもりに成ってても、それは理解ではなく、単に自分の内部における符号化でしか無い(これが独りよがり)って事を、自分自身が理解していれば、相手の想定外の言動にも対応できるんじゃないかな?と言うお話でした。
まーでも、それでも理解したいし、されたたい訳で、ぶつくさ愚痴をこぼしながらでも、理想に向かって模索することは止めないと思いますけどね。www