人が死ぬって事…

いまさらですが、人は死にます。
つか、人に限らず、生き物は死にます。
いつか必ず。

で、なんでこんな話なのかと言いますと、最近オレの周りでも親を亡くす人が増えてまして…。
まぁ、そういう世代なんだなと思う訳です。

オレ自身は、20代で母親に死なれ、30代で父親に死なれました。

まぁ、今だから言えるんですが、母親が死ぬ時はまるでテレビドラマの様で、葬式を出してからも数年は実感がわきませんでした。
つか、毎晩夢に出るんですよ。

母親が…。

夢の中の設定はこうです。

死んだはずの母親は、死ぬ数ヶ月前の姿で、とある屋敷に住んでるんですよ。
で、世間的には死んだことになってるんで、ココで生きてる(と言うか死んでるんですが、生きてる)事が世間にバレると、まずいから公言できないって設定なんですよ。(苦笑

判りやすく言うと、「ゾンビ状態で隠れ家で暮らしてる」感じなんですね。

で、オレは定期的にそこへ通って、生前できなかった話を母親とするんですよね。
まぁ、ありえませんが、ヤケに臨場感あふれる夢で、目覚めても、それが夢だと認識するのに、数時間かかるほどでした。
ソレが数年間続くんですよ。
ある意味、ノイローゼに近い状態に成りましてね、コレじゃダメだと。
何度も、用事も無いのに、夜中とかに、一人で墓参りして、母親の影を振り切りました。
数年後、やっとその夢を見なく成りました。
最近は、夢に出てきても、ただ座ってニコニコしてるだけで、前のような生々しさも、元気に会話することもなくなりました。
やっと、過去の出来事になった感じがします。

それだけ、親に死なれるって事は、インパクトあるんだと思うんですね。

でも、同時に思ったことがあります。
「あぁ、人はやっぱり死ぬんだな。」ってこと。

人が死ぬことってソレまで、まったく意識したことがありませんでした。
親に死なれて、初めて生きてるって事の意味を考えるように成りました。
まぁ、答えはまだ出てないに等しいのですが、ある種の指針みたいなものは、徐々に形成されてます。

青年期のオレは、いつも何かに挫折していて、その度に、死にたいと思ってました。
そんなとき、オレの母親は、自殺する事がどれほど卑怯なことなのかってのを、一生懸命オレに教えてくれましたが、若くてバカだったオレはそんな話を聞き入れる訳も無く、ただただ、自分の欲望のためだけに生きて、欲望が満たされなければ、死ぬことしか考えてませんでした。

でも、ある日、そんな母親が病に倒れ、余命半年の宣告を受け、予定通りに半年後に亡くなりました。

早くに親を亡くしたことは、オレの人生において、ものすごい意味があるんだろうなって、今だから思います。

もし、生きてたら…

もし、なんてありえませんが、あえてもし生きてたらと考えると、多分オレはいまだに実家暮らしで、親のスネをかじりながら暮らしてると思います。
現在でも、自立してるか?と問われれば微妙では有りますが、親が生きてると、確実に自立できなかったろうと思います。
そういう意味で、母親は「最後の教育」をしてくれたんだと思っています。

死ぬことでしか出来ない教育。

オレは、随分早くにその教育を受けましたので、他の連中よりは思うことが多々あると思います。

人生とは何か?

昔、3行で終わる人生って書いたことあるんですね。

1:昭和○○年、北海道の田舎で生まれ、田舎の高校を卒業後、旅館の仲居として働く。
2:昭和○○年、見合い結婚の末仲居を退職し、長男を出産。その後次男三男を生み、子育て人生が始まる。
3:平成○○年、不治の病に倒れ、治療の甲斐なく死亡。

自伝というか、誰かの、とりあえず、ウチの母親の人生を文章にしてみたら、3行で終わってしまったんですよ。
多分、母親本人が書くともう少し、いや、もっと沢山の文章が書けるのでしょう。

しかし、実の息子であるオレが見てさえも、3行の人生です。
他人が見ると、生まれて死んだだけの人生に見えるでしょう。

ウチの母親には夢があったそうです。
看護師に成りたかったそうで、試験まで受けたそうですが、持ち前の天然な性格のためか、答案用紙を1枚見落として、1枚まるまる未記入で提出して、試験に落ちたそうです。(笑)
でも、こんなエピソードは上記の「3行史」には含まれません。

3行がダメだとは思いませんが、行が多い方がよりいろんなことを体験して、それが社会やら世間やらに認められた方が、生きてる(生きてた)意味が見えるんじゃないかなって気がしてます。

つまり、生まれて死ぬまでの間に、何行の出来事を記録できるかって部分が、人生じゃないかな?とか思うようになったのは、もう十数年前です。

オレは、まだに行が増えてません。
しかし、いつか誰かがオレの人生を文章にしたときに、せめて4行以上になるようにしておきたいですね。

親が死んで悲しいのは当然です。
しかし、家族を悲しませるために死んだ訳じゃありません。

悲しむよりも、父や母の生きた証になるような自分の人生を作ってゆくのが、自分に出来る最後の孝行じゃないかなと思います。

音楽活動

えらいストレートな題名つけちまったなぁ・・・(笑

でも、他に適当なのが思いつかなかった。

音楽活動。

長く、アマチュアバンドとかやってると、どうしても生活と天秤かかる場面に出くわす。
そのときに、自分は何を選ぶべきか…と悩むんだろうね。

多くは、生活優先するんだろうね。

オレは、十数年悩んだ挙句、生活を捨てた。

会社を辞めたのをきっかけに、どんどん音楽活動にのめりこんでいった。
世間から見れば、社会不適合者とか、落伍者に見えるんだろうね。

でも実は、本人的にはいたって気にしてない。

少なくとも、十数年はサラリーマンとして世間並みの生活してたしね。
でも、そこにはオレの真の生活は無かったね。

常に親兄弟親戚と妻の機嫌を伺いながら、穏便にバランス取って、皆が気持ちよくなるようにと思いながら過ごす日々だった。
気づくとね、そこに自分は無かった。
やりたいことは決まってたし、そこに全力で向かいたかったが、その勇気が無かった。

勇気ってのは、自分に対するものじゃなくて、周りの人間に対する勇気、特に家族。
オレが特殊な道を選べば、何かしら家族に迷惑をかけるだろう事は容易に想像できたし、そのための負担を家族に負わせるのはオレ的には心苦しい。
心苦しければ、結局思い切った行動に出れないので全て不発に終わるし良い結果も残せない。

結果が残せないどころか、前にすら進めない。

でも、心配する家族を振り切る勇気が無かった。

でもね、オレは誰かのために生きてるわけじゃ無いことは、明白だったんだよね。
だから十数年悩んで、振り切ることにした。

価値観の違いってのかな?

オレにはオレの価値基準があるし、それを尊重することが悪いことだとは思ってない。
でも、それを尊重すれば確実に家族との溝は深まるわけだ。
なぜなら、家族はオレにそんなことを望んでないからだよ。
オレ的にはこれが凄い重要な問題になるんだ。

自分を取るか家族を取るか・・・。

十数年悩んで、オレは自分を取った。

そういう意味で家族を裏切ったな。
でも、後悔はしてないし、むしろ本当の自分を知ることが出来てよかったと思ってる。
エゴだと言われればそうなんだろうね。

しかし、音楽をすることがオレの自己実現につながるって思いは、15歳の頃からブレてない。

振り切ってしまったし、今更戻れないし、突き進むしか選択肢が無い。
誰かに恨まれたりしてもね、オレがオレとして生きてくには必要なのであえて恨まれようとも思う。

結果的に何がどう出るのか判らないが、このまま残りの数十年間、後悔せずにやってゆけるよな?と、自分で自分を再確認する夜である。

死ぬときに、意識の無くなるその瞬間に、「楽しい人生だったなぁ・・・」と思えるような生き方をしたい。

それが多分究極の贅沢であり、究極の望みなんだろうな・・・。