知ること(1)
普段の生活でも、情報の送受信は日常的に行われており、それが全てのコミュニケーションの基礎になっていることは周知だと思う。
提供された情報は、提供された側とっては常に貴重なモノであり、それらの情報を元にその後の行動計画が立てられている。
情報が間違っていると、間違った判断をして間違った結果を生む。
つまり、正しい行動計画が立てられないんだよね。
これは、誰に責任があるんだろうか?
情報を分析できなかった自分なのか?
それとも、必要な情報を提供しなかった誰かなのか?
殆どの場合は情報を分析できなかった自分の責任だと思うのだが、オレは過去に提供者より意識的に情報規制されて、行動計画が頓挫したことが何度かある。
必要な情報量が10あるとすれば、そのうち、2~3の情報を隠蔽してたりとか…。
もしくは9まで提供したが、一番肝心な最後の1つを隠蔽したりとか…。
この状況は、後々トラブルになるのは必至です。
で、提供側に釈明を求めると「嘘は言ってない。」と、のたまう。
確かに嘘は言ってないんでしょうね。
しかし真意を伝えるに必要な情報ではなかった。
意識的に勘違いを起こさせるような言い方は、個々の内容が真実であっても嘘と同義だと思うんですよ。
加えて「与えられた情報から、類推できない自分が悪い。」とも言われます。
詭弁ですね。
類推が困難であろうことを前提に、情報提供されてるわけです。
なので、類推できなくて当然なのに、出来ないオマエが悪いと言われる。
意識的に、提供される側の勘違いを誘発し、混乱させてる訳ですから、正しい類推なんか出来るわけが無いんです。
マスコミなんかも、一部の連中の利益のために報道規制しています。
たとえば、要人の良いところばかり報道して、失態をあえて報道しないとかね。
こうなると、その要人はすばらしい賢者であり、失敗はしない人だと多くの国民は思うでしょう。
しかし、それはありえないのですが、具体的になのがどう失敗なのかは誰にもわからないので、どんどん偶像化してゆきます。
コレって情報操作ですから嘘ついてるのと同じですよ。
まぁ、分析できない自分がバカってのも多少はありますが、騙し合いするのがデフォルトとは思ってないんで…。
たまに、騙し合うのがデフォだと思ってる人も居るようなので、とっても迷惑ですね。www
そういうわけで、「知る」ってことは大切だなと…。
知らないでミスして、知らないことの責任を誰か他人の所為にするのはみっともない。
まず自分で知る努力をすべきでしょうね。
その上で、人為的な隠蔽が発覚したら、そのときは「知らない事の責任」をその提供者にぶつけて見ましょう。
詭弁を言われたらその人間はそういうずるい人間だと思って諦めましょう。
腹が立ったからといって、殺すのはもちろん、殴ったって事件になるので、諦めましょう。
関わらないのが一番です。